【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(4)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(4)

(前回までのあらすじ)成功者の夫に子どもふたり、アパレルブランドのディレクターとして人も羨むような人生を歩んできた百合。しかし夫の不倫が発覚し、心は揺さぶられる。図々しい愛人の態度に落ち込む百合…。そんな時、会社の後輩男性に偶然出会い…。


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第一章・百合の場合(4)

「楠本さんには人に好かれようとするより、もっと自分らしく生きて欲しいです。楠本さんは、それができる人だと思います」

 門前仲町のカフェで、テーブルをはさんで向き合っている新垣歩が、まっすぐに百合を見つめた。
 百合は思わず目を伏せてから、「どうしてそんなことを言うの」と尋ねた。
代官山本社勤務の百合は、東陽町にある倉庫部門の主任の新垣と、ほとんど話したことがない。それなのに心の中に入ってこようとする。しかもノックもなしに唐突すぎる。

「すみません。いきなりでしたね」

新垣が頭を下げた。

「でも僕はずっと気になっていたんです。楠本さんが姉と同じ汗を浮かべていたので」

「お姉さんと同じ汗?」

 新垣が顔をあげた。

「そうです。姉は僕が25歳の時、亡くなりました」

がっちりとした筋肉質の新垣の体が、ゆらりと揺れると、弱々しい年下の男の表情が現れた。思わず百合は

「…ご愁傷さまでしたね」

と同情の色をにじませる。

「死因は心筋梗塞でした。たった一人で救急車も呼べない状況だった。いわゆる孤独死です」

 伏し目がちに語る新垣に、不謹慎だけどまつ毛が長いとうっとりしながら、百合は孤独死をしたという新垣の姉と同じ汗をかいていたことが気になった。

「それはつらかったわね」

「姉は僕の自慢でした」

新垣は深く目を閉じた。


「10歳年上の姉は小さい頃から成績優秀で、スポーツも万能でした。高校陸上の県大会でも優勝して自慢の姉でした。偏差値の高い東京の大学に入学して、姉が上京する当日でした。『自分らしく頑張ってね』と僕を抱きしめてくれたんです。僕は8歳でした。一生の思い出です」

 姉よりも学力が劣った新垣だったが、姉が激励してくれた「自分らしく」を心の糧にしながら、少年時代はサッカーに夢中になり、やがて大学はスポーツ学科に進学した。

「姉はいつもにこやかな笑顔で僕を見ていました。僕がアパレル会社に入社すると、周囲がこぞって驚きましたが、姉だけは『洋服も好きだよね』とさらっと受け止めてくれたのです」

大学を卒業した新垣の姉は、日本を代表するメーカーに勤務し、27歳の時に外資系のコンサルタント会社に転職した。港区高輪の瀟洒な高層マンションに一人暮らしをするようになり誰もがうらやむような“勝ち組”だった姉は、誰にもいえない孤独を抱えていた。それがわかったのは、皮肉にも孤独死がきっかけだった。

「姉の部屋には、床に散乱した睡眠薬と、ほぼ空のウィスキーボトルが倒れていたんです。スーツ姿で。帰宅すると、ウィスキーを飲み、睡眠薬を探していたのでしょう。僕には姉がゆるやかに自殺してしまったように思えて……」

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 ゆるやかな自殺。

百合の心の奥から、ある記憶が蘇った。私も中学生の頃に、そんな願いを抱いたことがあった。目覚めることのない朝がやってくることを祈っていたあの頃―――
カフェの窓から、足早に家路に向かう会社員やOLの姿が見えた。日が暮れてあたり一帯が夜の闇に包まれる前に、温かな家に帰ろうという人たちが人情豊かな下町に溢れているような気がした。

「姉の遺品を調べたんですが、ゆるやかな自殺を選んでしまった姉の孤独の度合いがよくわからないんです」

 新垣が珈琲をすすった。百合が慰めの言葉を探していると、新垣が悔しそうに顔をゆがめた。

「仕事は完璧にこなしていました。将来の幹部候補と尊敬されていたほどでした。会社の近くのマンションに越してから仕事一筋だったんです」

「本当に仕事一筋だったの」

 百合は新垣の10歳年上の姉の姿が想像できなかった。有能な女性だからこそ、欲もそれなりにあったと思う。高輪の瀟洒なマンションに住むという発想も、上昇志向の表れではないだろうか。

「孤独死する半年前に、親戚の結婚式で一緒に撮った写真です」

 新垣が差し出したガラケーの画像には、新郎新婦を囲んでピースサインの新垣と、ショートカットの利発そうな女性が写っていた。新垣そっくりの大きな瞳に、鼻筋が整う新垣の姉は、黒のワンピースとパールのネックレスがとても良く似合っていた。

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「ゆるやかな自殺をするような人には見えないわ」

「でも睡眠薬が散乱して、ウィスキーの瓶が転がっていて…」

 悲しみがこみ上げてきた新垣が、顔を覆った。

「姉がうっすらと汗をかいていたんです。暑くもないのに。紙おしろいを額に当てていましたが、あの時どうしたのと一言声をかけてあげればよかったと……悔しいです」

 顔から手を離すと、まつ毛が濡れていた。抱きしめてあげたくなるほど、新垣が小さく見えた。

「新垣さん。部屋の状況からゆるやかな自殺と思い込みたいのはわかるわ。でも私にはお姉さんがどうしても自殺したように思えないの」

 新垣をまっすぐに見つめると、新垣が身を乗り出した。

「お姉さんのマンションはどうだったの。部屋の広さとか、壁の色とか、家具の配置とか」

 新垣がガラケーを操作してから、「これです」と画像を差し出した。品川駅に近い25階マンションの20階が新垣の姉の部屋だった。2LDKのリビングルームとベッドルーム、パソコンや本棚などのプライベートルームまで、白い壁に黒の家具などモノトーンのインテリアで統一されていた。それは住む人のセンスの良さを語っている。

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「こんなに落ち着いたインテリアを好む人が、自殺なんて想像できないわ。一時的に睡眠薬を飲んでいたかもしれないし、ウィスキーボトルが転がっていたからといって、亡くなった夜にどちらも飲んだという証拠もないんでしょう。お酒を飲んで酔って帰ってきて、たまたまウィスキーボトルを蹴っ飛ばしたかもしれないし。考えすぎかもしれないわ」

「でも」

と新垣が言い澱む。憧れの姉がいなくなってしまった喪失感が大きいのだろう。

「それよりお姉さんがどんな恋をしてきたか調べてみたら」

 とにっこりと微笑むと。

「恋?」

と新垣が驚いて声をあげた。

「そう。魅力的なお姉さんだから恋人がいたでしょう。もしそれが過去のことだとしても、きっと素敵な思い出があったはずよ」

 無言のまま、新垣がうつむいた。亡くなった姉の恋を想像できないだろう。百合は話題を変えようと思った。

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「ところで、私がお姉さんと同じ汗をかいていたそうね」

「そうです」

 少しほっとした表情で新垣は冷めた珈琲を一口すすった。

「先月の本社会議で楠本さんを見かけたらに、暑くもないのに額にうっすらと汗がにじんでいて。しかも元気がなかったから」

 しまったと百合は慌てた。夫と愛人の不倫現場を目撃した直後の会議の日だった。人は見ている。隠しても気づいている人が必ずいるのだ。

「疲れていたの」

 百合も冷たくなったジンジャー紅茶をすすりながら、飲み干した。

「新作ブランドを任されていたから、プレッシャーもあったのかしら」

「いや」

 と新垣が否定した。

「楠本さんはいつも生き生きとしてプロジェクトに取り組んでいます。別の理由で疲弊しているように見えました」

 直観力が鋭いのは女性の方だと思っていたが、一瞬で見抜く能力は男女ともにあるのだ。言い訳をしたところで、新垣は嘘だということがわかるだろう。

「家族のことで、ちょっと悩むことがあって」

 水が入っているグラスに手を当てるが、水はとうに飲みほしていた。 

「お子さんのことですか」

「いえ……夫よ」

「ご主人が、病気か何か」

「病気と言えば病気かも。不倫している」

 「不倫」という言葉を口にした途端に、涙が溢れてきた。バックから慌ててハンカチを取り出すと、その手を新垣がつかんだ。骨太のがっしりとした手だった。百合は思わず握りしめた。

(つづく)



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この記事のライター

ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。

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