【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(5)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(5)

(前回までのあらすじ)成功者の夫に子どもふたり、アパレルブランドのディレクターとして人も羨むような人生を歩んできた百合。しかし夫の不倫が発覚し、心は揺さぶられる。そんな時、会社の後輩男性から思わぬ告白を受け感極まり涙をこぼす…。


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第一章・百合の場合(5)

深川不動堂の祭壇の灯りが霞んで見えた。夜のとばりが降りた不動尊のゆらゆらとした幻想的な光は、まるでこの世と冥途のはざまにいるような錯覚すらもたらす。

 参拝する人影もまばらだった。百合はゆっくりと新垣と参道を歩いて参拝した。
 あたりはしんと静まり返っている。静謐で艶やかな光を放つ不動尊が不思議なほど安堵感を与えていた。一緒に歩く新垣と参拝は初めてなのに、まるで昔から頻繁に散歩した仲のように、足取りもぴったり一緒だった。

「下町はいいわね、とても落ち着くわ」

 参道からぐるりと遠回りしようとする百合に

「落ち着いてよかった」と新垣が嬉しそうに呟く。

 カフェで「夫が不倫」と言いかけた途端に涙が溢れてきた百合は、「ここを出て歩きましょう」という新垣の提案にすがるような気持ちで外に出た。ひんやりした夜の冷気を感じると、目が覚めたようにすがすがしくなり、不動尊に向かって無言で歩いていくうちに、冷静さを取り戻していった。

 参拝が終わってから不動尊の境内にあるベンチに腰をかけた。隣に座った新垣が、やがてぽつりとつぶやいた。

「実は僕も浮気されたことがあるんです。20歳から2年つきあって、それから3年間同棲した女性に。結婚するつもりで暮らしていたのに、同棲2年目で浮気していたことに気づいて。別れようとしたけど、未練が残って、できなかった」

 一気に語ると、新垣はうつむいた。記憶から消してしまいたい思い出なのだろう。

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「ごめんなさい。辛いことを話させてしまったわね」

「いや、いいんです」

新垣が遠くに視線を投げかけた。

「別れられなくて本当に困った。失ってしまうのが怖かったから。そんな時に姉が亡くなってしまって。するとますます彼女なしで生きていけなくなって。でもそれが彼女の負担になって。すると彼女がまた同じ相手と浮気して。とうとう『浮気じゃなくて本気だから』と彼女は僕から離れその浮気相手と結婚したんです」

 百合は言葉を失った。目の前の年下の男が幼い少年のように小さく見えて、思わず抱きしめてあげたくなった。

「失恋した時、姉があの世から『別れてよかったね』って言っているような気がしたんです。ひょっとしたら、自殺のような死に方は僕に不誠実な女とは幸せになれないから、別れろっていっていたのかなと…」

「……そう思いたくなるわね」

「否定しないんですか」

「ええ」

「失恋を姉の死にこじつけている僕を、友達たちがやばいって。失恋と姉の死のダブルパンチで頭がおかしくなったんじゃないかって言われました」

「こじつけでもいいじゃない。あなたは失恋の時の自分を必死に守っていただけよ」

 理屈では割り切れないものが人間の感情に潜んでいる。大事なものをなくしたという喪失感が強くなればなるほど、感情が先走ってしまうことで、我を忘れてしまうこともあるのだ。
 新垣は目を大きく見開いてから、やがて

「ですよね」

といつもの口調に戻った。

「僕もそう思っていたんだなあ。だから発狂しなかったんだなあ」

「堪えることができたのね」

 百合が新垣の肩をポンポンとたたくと、新垣がにこっと笑った。眩しいくらいに前歯が白かった。

「自分のことを棚に上げますが、人間って、訳が分からないことが起こると、こじつけて考えてしまうものだなってわかったんです。姉さんは僕の元カノが浮気していたことなんか知らなったし。だから姉が自殺した理由が弟を諭すためなんて荒唐無稽というより、バカな弟がほざいているにすぎないんですよ。でも自分を庇うわけじゃなけど、人って、訳が分からないことにわざわざ理由をつけようとする。きっと弱いからですね、人間って」

 人間は弱いという言葉を口にできる人は、本当は強いのだと百合は思った。姉の死が新垣を人として成長させたのだろう。

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「理不尽なことといえば、私も自分のことが良くわからないのよ」

 百合は言葉を選びながら、ゆっくりと語り出した。目撃した夫の不倫現場、その愛人が部下の女性で2年前から愛人関係を続けていること、愛人が新居祝いのパーティーにやってきたこと、ふとしたことで愛人をオイスターナイフで脅してしまったことを、洗いざらい話した。

「あの後、愛人は謝罪したの。きっと私のことが怖くなったのね」
 
新居祝いの夜、キッチンでオイスターナイフを夫の愛人の及川美和に向けた。だが止めようとした従妹の七海が後ろから抱きしめると、その拍子に百合の手からナイフが離れて、床に落ちた。恐怖の表情を浮かべた美和がキッチンから逃げようとすると、今度は七海が美和の前に立ちふさがった。

「あなたは一体うちの百合に何をしたの」

 従妹の七海はいつも自分の味方だ。百合の目に涙が浮かんだ。

「用賀のマンションの駐車場で、私と目が合ったでしょ」

 涙をこらえて、美和に訴えると、小さな声で「ごめんなさい」と美和が謝罪した。そして「別れます。二度と二人で会いません」と何度も頭を下げてから、逃げるように帰っていったのだ。あれから一か月以上経ってしまった。約束が守られた気配がどこにもない。

「あいかわらず夫の帰宅は遅いし、朝方帰ってくることもあるの」

しかもあの夜から、夫の健司が百合を避けている。夫婦のすき間風を長女の明日香がうすうす気づいていた。

「ご主人の愛人が別れられなくなっているんでしょう」

 消えてしまいそうな声だった。新垣は自分の過去と重ね合わせているのかもしれない。百合は首を振った。

「夫に別れる気がないのかもしれない」

「まさか。お子さんがいるのにそんな…」

 独身の新垣には、身勝手な夫のことが理解できないのだろう。百合はため息をついた。

「夫に愛人と別れてと言えば、きっとますます別れないような気がする。でも黙っていると、ずるずると愛人と関係が続いていく。どうしたらいいのかしら」

 ため息が漏れる前に、スマホがラインの着信を知らせた。明日香から帰宅したという連絡だった。

「そろそろ帰るわ。聞いてくれてありがとう」

ベンチから立ち上がると、新垣が百合の腕をつかんだ。骨太の指だが、指先は柔らかい。

「僕が確かめましょうか。ご主人の愛人に」

 新垣の目に強い光が満ちていた。過去の苦い痛みに突き動かされる新垣の勢いに、百合は思わず飲み込まれそうになった。

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 社に連絡すると、急ぎの用事がないとわかったので、ノー残業デーを理由に、百合は直帰を選んだ。メールチェックは自宅のパソコンで済ませると制作部に伝えてから、二子玉川のマンションに帰宅した。今夜も健司の姿はなかった。

「パパは今日も遅いのかな」

 食卓についた匠が寂しそうに百合に訴えたので、「パパ、お仕事忙しいのよ」と慰めると、明日香が匠の頭を無言で撫でた。

 匠を寝かしつけてからリビングのテーブルにパソコンを置いてソファーに座りながらメールチェックをしていると、明日香が2階の部屋から降りてきて、リビングにやってきた。

「お風呂入りなさい」

 メールチェックで夢中の百合に、明日香が「ちょっといい」と声をかける。

「どうしたの」

「匠のことなんだけど」

 パソコン操作の手を休めてから「匠がどうかしたの」と振り向くと、「ママと同じことを匠に教えたよ」と悪戯っぽく笑って隣に座った。

「私が小学校6年の時に、クラスメイトの家に遊びに行きたいってママにお願いしたじゃない。覚えてる?」

長女の明日香がそれまではあまり話題にしなかったクラスメイトの家に泊まりにいきたいと言い出したことがあった。

「ああ、あれね」

 そのクラスメイトはとても大人びていて、年上の男の子と深夜まで遊んでいるという噂があった。明日香に仲が良いのかと尋ねると、「一緒に遊んでいる佳奈ちゃんが行くっていうから」と答えた時は、その子と親しいわけではないとほっとしたが、あわてて打ち消そうとした。
発展的な女の子だという噂は根拠がないとわかっているし、噂だけで人を判断するようなことをしたくないとも思った。でも親として、泊まりにいくような深い付き合いにしてもらいたくないというのも正直な気持ちだった。迷った挙句、百合は明日香にあきらめてもらうように説得した。

「ママはその子の事を明日香から初めて聞いたわ。あまり知らないし、おうちの人とも話したことがないから、今回はやめようね」

 すると「なんでよ」と反発されたので、今回は承諾できないよと繰り返し諭しながら、12歳の明日香にやっとあきらめてもらった。それからそのクラスメイトのことも話題にならなかったので、百合も忘れてかけていた。

「今日ママが帰ってくる前に、匠がクラスメイトのうちに今度の土曜日に遊びに行きたいっていうから、『やめようね』と説得したよ。あの時はママにむかついていたし、ちっとも納得していなかったけど、今から思うと、いかなくてよかったと思う」

 匠も仲の良い友達に誘われて、あまり親しくないクラスメイトのうちに泊まりに行きたいと言い出した。そのクラスメイトは、明日香がかつて泊まりに行きたいと言い出した子と似ていたのだ。匠を説得しながら、ママの気持ちがわかったと思ったそうだ。

「そうだったのね」

二人の子供たちに、同じシチュエーションの出来事が起こったのだ。感慨深さがゆっくりと広がっていく。
「ママはいつでも私や匠のことを一番に考えてくれているよね。だから私も匠もママの味方だよ」

たまらなく嬉しくなって「明日香」と娘の名前を呼ぼうとすると、「お風呂に入るね」とリビングから出ていった。
後姿を追いながら、ふとなぜ母親にわざわざ味方だと言いに来たのだろう。原因は両親の不仲のせいなのだろうか。

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パソコンの電源を切った百合は、ゲストルームに向かった。戸棚から引っ越し祝いに従妹夫婦からもらったモルトウィスキーを取り出すと、すぐ下の段に、結婚祝いの北欧製のガラスのグラスが整然と佇んでいた。

結婚してから17年の年月が経つが、グラスはあの時のままだ。愛も時間も、戸棚のグラスのように閉じ込められたらいいのに、人間の気持ちは時間とともに変わっていく。変わらないのは、子供たちのすくすくとした成長を願う母親の気持ちだけだ。夫婦の愛情は自分の意志とかかわりなく、変化していく。結婚祝いの北欧製のグラスの美しさを直視するのが嫌になって、戸棚を閉めてリビングに戻った。

健司が愛人と別れたら、夫婦仲は戻るのだろうか。

百合はゆっくりとモルトウィスキーのふたを開けて、グラスに注いだ。

夫婦としてやり直すには覚悟が必要だとわかっていても、愛情を元に戻そうという強い力が沸いてこない。無力感を打ち消したくなって、モルトウィスキーを舌の中でまろやかに転がすと、なだらかに喉を通っていった。

(つづく)



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この記事のライター

ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。

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