
…第一話を読む
扉を開けると、チャリンという鈴の音が響いた。
「あら、今日子。いらっしゃい」
カウンターの奥に立つマスターのノブミツがグラスを置いた。カウンターには艶のある白髪の背の高い奥村社長が座っていた。 50歳を少し過ぎた奥村は、紳士で誉れ高く、まさに“ロマンスグレー”の魅力的なミドルエイジだ。
「奥村社長、お久しぶりですね」
「今日子さん。相変わらず綺麗だね」
「ありがとうございます。隣に座っていいですか」
「どうぞ」
隣に座りながら、今日子はちらりと奥村の顔を覗いた。奥村は珍しく少し憔悴しているようだった。
「何を飲んでるんですか」
「シャンパンだよ。よかったら、今日子さんもどうぞ」
「いただきます」
ノブミツがシャンパングラスを置くと、奥村が注いでくれた。ラベルにはドンペリとある。
「ドンペリなんて5年ぶりかしら」
「しかも最高級クラスよ」
ノブミツがもったいないという素振りで、シャンパングラスを手に取る。今日子もグラスの縁の近くから香りを楽しんだ。
「『カフェ ソサエティ』では最高級のドンペリも置いているの」
「なわけないでしょ。うちは至って庶民的。優雅ぶっているけどね」
「では、奥村社長の持参」
「そうよ、やけ酒が最高級のドンペリだなんて。さすがは奥村さん」
ノブミツの皮肉に苦笑いの奥村が、ノブミツのグラスにもドンペリを注いでいく。そのしぐさは優雅で、やけ酒を飲んでいるようには見えなかった。
今日子はカウンターをはさんで飲んでいるノブミツと奥村の組み合わせが不思議でならなかった。ジェントルマンの奥村とノブミツは、30年前に二人がヨーロッパに旅行している間に知り合ったという旧知の仲で、ノブミツにとって奥村社長はゲイ以外の数少ない貴重な友だという。
「奥村さんでも、やけ酒飲みたくなる夜もあるんですね」
「そう…その通り。シャンパンがミスマッチだったな…。やけ酒にはバーボンがいいな」
「そうですね。ジンにしたら、アル中になっちゃうかも」
「あら、今日子さん」
ノブミツの目がパッと輝いた。
「『地球に落ちてきた男』をもじったのね。あの映画のラストでエイリアンのボウイはジンでアル中になった」
頷いた今日子が「あの映画のデビット・ボウイ、人間離れした美しさでしたね」とうっとりとした表情を浮かべた。すると奥村が
「監督はニコラス・ローグだね。『赤い影』は光と音と色の洪水のような映画だった」
奥村が映画通とわかると、いつの間にか映画の話題に花が咲いて、シャンパンがあっという間に開いてしまった。
「楽しいわね、奥村さん」
「ああ、失恋した男に見えないだろう」
奥村の憔悴の理由が失恋とは……失恋に最も遠い世界に住んでいるような風情の奥村の静謐な横顔は少し寂しげだった。
「奥村社長が失恋するくらいだから、あたしは今年100回以上失恋しそう」
おそらく失恋の相手は、奥村が交際していた28歳のインテリアデザイナーだろう。店で一度見かけたことがある。肩までかかるセミロングヘアに、清楚なイメージの女性は、ぎらぎらとした野心をひた隠しにしていると一目で今日子は見抜いた。だがロマンスグレーの奥村の恋は心から応援していた。
「インテリアデザイナーの勉強になるからと言って、奥村社長が国内外のあちらこちらの有名なホテルに連れて行って、素晴らしいインテリアを見させてあげたのに、他の男とできちゃった婚なんて、酷い女よね」
ノブミツが毒づいた。だが二股をかけられた挙句に捨てられた奥村は、ノブミツに同調するどころか、元恋人を庇った。
「僕も楽しかった。いい思い出になったよ。彼女がいい仕事をしてくれたら、僕も嬉しいよ」
奥村がシャンパンを飲み干した。憔悴していた奥村の目が、少し潤んでいた。やせ我慢をする男は愛おしい。やせ我慢には若い男性にない美学が潜んでいるから。
ジャケットからスマホを取り出した奥村が、「ちょっと失礼」と外へ出た。戻ってくると「会社から呼び出されたよ」とコートを抱えて支払いを済ませると、素早く出ていった。奥村のグラスを片付けながら、ノブミツがぽそりと呟く。
「10年前に奥さんを病気で亡くされて、5年経ってやっと彼女ができたら、失恋だなんて。愛する者が次々にいなくなる人っているのよね。でも奥村さんには幸せになってもらいたいわ。あんな素敵な人はそんなにいないからね」
今日子も深く頷いた。
「でもいい人に限って、悪女に捕まることが多いから。病気で亡くなった奥さまが悪女だとは思わないけど」
「あら」
ノブミツが意外そうな顔をした。
「今日子って、案外男を見ているのね」
「来年は40歳ですから、それなりに」
と苦笑いすると
「でも男を見ている割には、今日子って、自分の男を見ていないわね」
と辛口パンチを食らった。いつもなら、ノブミツの毒舌をスルーできるのに、今夜は心に突き刺さってズキズキする。
「今日子、あんた、年下の男の前で気を張っているでしょ」。
「年下の男って、健太のことを言っているの」
去年の暮れに健太を『カフェ ソサエティ』に連れてくると、ノブミツは健太の頭のてっぺんからつま先までじろじろ見た。“男による男の品定め”からまるで健太を護るようにすぐさまテーブル席に共に移動した。
「年下って、刺激があっていいけど、疲れることもあるのよね。あたしなんかいつもよ」
「年上でも疲れることもあるわ」
今日子はバッグから転送された江口貴彦からの手紙を取り出してことのいきさつを打ち明けると、ノブミツは意外にも親身になってくれた。
「5年前の手紙……なんだかミステリアスね。もし気になるんだったら。ここで開封して。もし怖い内容なら、一緒に怖がってあげる」
「ありがとう」
ほっとしたものの、差出人の江口貴彦の名前が生々しくて、手紙を開封しようとするがイマイチ力が入らない。
「今夜は無理に開けなくてもいいわよ、今日子」
ノブミツが今日子の手をそっと握った。
「過去ってある日突然どっと押し寄せてくるものなの。そんなときは、通り過ぎるまで待っていた方がいいわよ」
「マスター…私…」
ふいに涙がどっと溢れてきた。この5年間泣いたことのないのに、涙はどうして予告せずに訪れるのだろう。バックからハンカチを取り出すと、それがまるで引き金になったのか次々と涙が溢れてくる。
「今日子はね、今日子って女はね、いつも戸惑っているの。戸惑いながら、必死に前を見ようとしているの。そんな飴細工のような繊細さと、乗り越えようとするパワーをわかってくれる男を見つけなさいよ」
ハンカチを握る今日子がこくんと頷くと、チャリンと鈴の音と同時に扉が開いた。
(つづく)
作家 夏目かをる
ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。