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「ここはどこですか」
意識が朦朧としているせいか、自分の声にまるでリアリティーがない。フライト中の機内で時差ボケの旅行者のような感覚だった。
「西荻窪病院です。昨夜転倒したんですよ。覚えていますか」
頭の中で車のヘッドライトが煌めいた。そういえば、昨夜健太のアトリエから西荻窪に向かう屠龍で、危うく車に惹かれそうになったのだ。転んでからの記憶がないが、運よく病院に搬送されたのだろう。腕時計を除くと、18時半を過ぎていた。というのことは、ほぼ一昼夜病院で過ごしたことになる。
「軽い打撲です。脳震とうを起こしていたので、念のために精密検査をしたほうがいいです。もう一泊してもらっていいですか」
「念のために」という言葉を繰り返す看護師に、今日子は首を横に振った。病院は嫌いだった。今から会社に出社したかった。入稿作業がたまっているはずだ。
「会社に連絡を入れてから決めます。たまっている仕事もあるので」
「会社には連絡しておきました」
ナース服のポケットのシルバーのウォッチが、ブローチのように綺麗だった。
「連絡を入れたって、どういうことですか」
ウォッチをぼんやりと眺めながら、今日子が尋ねた。
「すみません。病室に所持品が運ばれたときに、携帯がコールしたので、マナーモードにしようとしたら、ボタンを押してしまったんです。編集部の方だと名乗られたので、病院名を伝えておきました」
「そうだったんですね」
今日子はベッドから起き上がって、ベッドの隣にある小さなデスクに置かれているバッグからスマホを取り出そうとして手を伸ばした。手が少し震えたが、気にせずにスマホを取り出し、廊下に向かって一歩踏み出すと、ふらふらとめまいがして体のバランスが崩れた。ベッドの縁に手をついて起き上がろうとするが、軽いめまいが次々と襲い掛かっていく。
「大丈夫ですか」
看護師に支えられると、早く病院から出たいという気持ちがますます強くなって、「大丈夫です。会社に報告をしなくては」ともう一度立ち上がろうとしたが、まだふらふらする。力を振り絞り、体を引きずるようにして廊下に出たが立っているのも辛くなって、壁に寄りかかった。
ふと誰かの視線を感じた。じっと見られているような感覚に包まれた。視線の先を辿っていくと、左斜めにあるナースステ―ションにいる一人の看護師と目が合った。今日子の様子を怪訝そうに見ていたが、壁に寄りかかってスマホを操作しようとする今日子のそばにやってきて、
「あなた、顔が真っ青よ」
と心配してくれた。さらにめまいに襲われたが、
「大丈夫です。電話するだけだから」
とふらついた足元を支えようとして、壁にもたれたが、その手が滑って、ずるずると体全体がずり落ちてしまった。起き上がろうとしたが瞼が重くなって、そのまま気を失ってしまった。
カーテンのすき間から、明かりが漏れている。
起き上がると、めまいはなかった。ベッドから足を出して立ち上がり、ドアを開けて病室から出てみると、ナースステーションの明かりだけが周囲を照らし出している。廊下の明かりが消えているのは消灯時間が過ぎたからだろう。
明かりのところまで近づくとさっき心配してくれた看護師が一人でカルテのようなものを熱心に記入していた。今日子に気づくと、顔を挙げて「歩行しても平気なの」と立ち上がった。
「めまいはもうないです」と答えると、「病室に戻って休んだ方がいいですよ」と促された。そこで今夜も病院に泊まるのなら、洗顔をしたいと申し出ると、タオルを貸してくれた。
「洗面所に石鹸があるけど」
「石鹸で洗顔するんですか。一昼夜経っているから、かなり汚れていると思うんですけど」
と少し口を尖らすと「それもそうね」と呟いた看護師が「ちょっと待ってね」と思い出したように、ナースステーションの奥へと進んでいった。整理棚から取り出した小さな花柄のビニールバッグを渡してくれた。それはコスメセットが入っているアメニティグッズだった。
「一昨日退院した患者さんが置いて行ったの。未使用のはずよ」
「すごいですね。まるでプチホテルみたい」
今日子が感心していると、別の看護師がナースステーションに入ってきた。アメニティグッズを渡してくれた20代半ばの看護師に比べて、少し疲れたような表情を浮かべている。
「もうじき0時よ。早く病室に戻ってね」
と今日子に声をかける看護師のナースキャップから覗いている左耳たぶに、小さなほくろがあった。「まさか」と今日子の動悸が激しくなった。目じりに細かい皺があるが、たるみが目立たないところをみると、看護師は今日子と同年代のアラフォーかもしれない。5年前のあの看護師ではないとわかるとほっとしたが、同じ場所にあるほくろという偶然に、今日子は少し寒気を覚えて、ナースステーションを離れた。
誰もいない洗面所でほとんど落ちてしまったメイクをメイク落としでふき取ってから、泡立てたクレンジングで顔を洗い流すと、洗面所のお湯が顔に心地よくて、思わず涙が吹き出てきた。5年前のあの夜も、洗顔をしながら、すすり泣く声をもらさないように、ひっそりと泣いたものだった。左耳たぶにほくろがある看護師が私を叱咤したのは本当に現実だったのだろうか。
今日子はあたたかなお湯で何度もすすぎながら、5年前のことをゆっくりと反芻していた。
5年前の秋のある夜も、今日子は病院のベッドで目が覚めた。
全身がだるく、点滴の管がささる手がだらんと力なく下がっていた。
起こってしまった出来事を知りたくないという気持ちの方が勝っていた。不甲斐ない自分と心の中で闘いながら、ひょっとしたら、まだ可能性があるのではという一縷の望みも捨てきれなかった。
カーテンが開いて、看護師が入ってきた。
起き上がろうとすると、「無理しないで」と看護師が今日子の腰に手を回して、横にさせた。急激に虚しさが押し寄せてくると、今日子は看護師に「子供は?」と尋ねた。無言のまま布団をかけようとする看護師の腕に今日子はすがりついた。
「だめだったの、それとも生きているの」と問いかけた。看護師の唇が動くのを今日子は見逃さなかった。
-つづく-
作家 夏目かをる
ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。