【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(7) | 大人のワタシを楽しむメディア
【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(7)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(7)

第二章、WEBメディアの編集長としてキャリアを積む独身・今日子は年下の彼氏・坂口健太との順調な恋愛を楽しんでいた。そんな時、5年前に別れた江口貴彦から手紙が届く。健太の浮気現場を見てしまい動揺した今日子は交通事故にあい病院に搬送されてしまう。そこで過去の辛い記憶が蘇る…。


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 今日子は階段の欄干につかまりながら、スリッパを階段にこすり合わせるように昇っていった。屋上へ向かいながら、テレビドラマのワンシーンを思い出した。女刑事が赤いヒールをカンカンカンと鳴り響かせて階段を駆け上がり、容疑者を追い詰めていく。その勇ましい姿に比べて、レンタルのくすんだグレーのパジャマと、病院から借りた擦り切れたスリッパの自分はまるで天と地だ。私は不甲斐ない女だと今日子は悲しくなった。

 階段を昇り切った踊り場にあるドアのノブを回した。秋の夕刻の光が屋上に忍び寄るように鈍く光っている。屋上を覆うような高い柵を見上げると、柵の合間から夕焼けが見えた。

柵を飛び越えることが不可能だとわかると、弱々しく地面にしゃがんでしまった。

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 昼下がりの午後、左耳たぶにほくろがある看護師に叱咤されてからベッドで泣いているうちに、いつの間にか眠ってしまった。病室に差し込んでくる光が眩しくて目が覚めると、急に怖くなって、慌てて病室を出た。だがたちまち途方に暮れて、病棟をあてどなく歩いているうちに、非常階段を昇って屋上にたどり着いたのだ。
 
体から力が沸いてこない。流産をしたという現実が再び今日子を襲った。子供を育てきれなかったお腹にぽっかり穴が開いたような空洞。怖かった。思わずお腹をおさえた。すると流産する前の江口との激しいやり取りが蘇ってきて、涙があふれてくる。

 ふと背後に人の気配がしたので、慌てて振り返った。一人の女性が屋上の端に立って、柵からじっと階下を見下ろしている。裸足のままだった。危険を感じた今日子は駆け寄って、「寒くないですか」と声をかけた。

今日子よりも少し若い女性だった。背は今日子よりも10センチぐらい低かった。うつろな目で首を横に振りながら、「高い柵ですね」とため息をつく。屋上にやってきた目的が自分と同じだとわかると、今日子はなんだかほっとした。

「そうですね」

と頷いたが、「でも簡単に死ねないですよ」とまっすぐにその女性を見つめた。「死んではいけないわ」と語気が強くなった。

「死にたいってわかるのね。あなたも、ひょっとして」
 
うつろな目が、猫のような鋭いまなざしに変わった、が、たちまち暗い表情を浮かべた。

「死にたくなって、ここに来た。でもこの柵じゃ無理」

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 目の前の柵を超手でつかんで、何度も揺さぶりながら泣いている。今日子は思わず両手で抱きしめた。さっき病室で耳たぶにほくろのある看護師の前で泣いた自分を重ね合わせながら、一緒に号泣した。

「もっと苦しんでいる女性がいるのよ」

泣きじゃくる今日子の背中をさすりながら、看護師が言った言葉を思い出した。

「悲しいのはあなただけじゃないの。この病院には、あなたよりももっと辛く苦しい女性たちがこれまでたくさんいたの。あなたは事故で子供を失ったけど、自ら決めて産めなかった女性たちはもっともっと辛いの。あなたは、そんな女性たちよりもずっと恵まれているわ。だからこれからしっかり生きて」

 しっかりと生きて、と生きることに正義を掲げられても、その気になれないことだってある。5年前のあの時の今日子は、しっかり生きることへの反発から衝動的に、屋上へと向かっていったのだ。

言葉で「強く生きる」といっても、心は悲しみでいっぱいだ。悲しみの心をねじふせようとしても、どうにもならない苛立ちが今日子を駆り立てた。だが目の前で泣きじゃくっている女性は、看護師が言うように、産むことを諦めなければならなかったのだろう。人生の最悪なことが起こってしまった女性なのだ。

 でも可哀相だとは言いたくなかった。悲しみを比較することなどできないから。

「泣きたいだけ泣いていいよ」

と今日子は、さっき看護師がさすってくれたように、悲しみに打ちのめされて死にたくなっている女性の背中をさすり続けた。

時には、同じ苦しみを持っている者しか、分かち合うことができないこともある。一人一人の悲しみを全て想像できるほど、人は心の包容力が十分にあると言えないからだ。共有できる悲しみがある者同士が互いにぬくもりを感じ合うことは、実は幸せなことかもしれない。たった一人で孤独を抱えることよりもずっと。

 素足の女性の涙がパジャマに浸透すると、いつの間にか今日子はこの女性に感謝していた。悲しみを全身でぶつけてくるこの女性には、今日子に対する哀れみがなかったからだ。自分の悲しみに没頭している女性を、今日子は愛おしいと思った。このままずっと背中をさすり続けていたかった。

-つづく-


作家 夏目かをる



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