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東京に春一番が吹いたというニュースがネットで流れた。もう春なのかと今日子はキーボートを叩きながら、ほおっとため息をつく。オフィスの外から、ゴーッという音が響く。窓に目をやると日本橋の路地商店会の旗が大きく揺れていた。
「編集長、今日の郵便物です」
眉を太く描きボブヘアできりっとした風情の向井葵が、まとまった数の郵便物をデスクに置いた。
「ありがとう。うちの編集部も存続している証拠ね」
今日子が郵便物を受け取ると、
「編集部は今日も快晴ですよ。編集長」
すました顔で応えてから自分のデスクに戻る葵の後ろ姿に向かって、今日子は「ありがとう」と呟いた。葵は編集スタッフの中では特に優秀というわけでもなく、仕事ができないというタイプでもなかった。ひょうひょうとしながら真顔でジョークを口にする葵に、今日子はサブカルライター時代の同業者を重ね合わせてしまう。
中央線沿線に住んでいるクリエーター独特の匂いを葵は放っているが、いざという時に、自分の信念を貫く心強いスタッフでもある。今回の騒動では、ライバル会社に高額の条件で引き抜かれた編集スタッフとは一線を画す存在が浮き彫りにされた。
オフィスの時計が午後3時を指していた。今日子はスケジュールボードに「銀座 帰社18時」と書いて、コートを羽織る。1か月前のスケジュールボードには葵と二人だけだったが、今は6人の名前が記されている。編集部壊滅の危機は、避けられたのだ。
今日子は銀座駅を降りてから銀座西並木通りから新橋方面に向かった。小さな路地に入ると、ある雑居ビルのエントランス前で真由美とすれ違った。
「今日子さん」
「あら、真由美さん」
いつものカチューシャのヘアスタイルではなく、背中まであるロングヘアを耳のあたりでかきあげた真由美が、クリッとした目でまばたきもせずに、まっすぐに今日子を見つめた。
「大変だったわね。よく持ちこたえたと百合から聞いたわ」
「百合にも心配をかけたわね。『カフェ ソサエティ』にもすっかりご無沙汰をしちゃって」
「飲んでいる暇なんか、ないしね」
真由美が肩をすくめた。
「私も新卒で入社したPR会社で同じようなことがあったの。個性的な女上司と私だけが取り残されて、部署のスタッフ全員がライバル会社に引き抜かれたのよ」
「そうだったのね。どうして残ったの」
「個性的な女上司が私を気に入っていたみたい。私にはまったく自覚なかったけど」
「のんきね。真由美は」
思わず笑みがこぼれた。のほほんとした真由美に癒されていく。
「その女上司は鉄の神経を持っていたから、『うるさい女子がいなくなって、せいせいしたわ。仕事もはかどる』って。涼しい顔でね。女上司はほぼ毎晩深夜残業で、私も付き合わされそうになったから、慌てて社長に『早く新しいスタッフを』と求人を催促したの」
「そうだったのね」
「新しい編集スタッフは集まったの?」
「おかげさまでぼちぼち」
「強がってない?」
「うん、大丈夫」
退院した日にさっそく自社のサイトで求人を募集したところ、定員の5倍の応募もあった。しかも作家の氷室恭介を始めとした、執筆者たちが編集スタッフを紹介してくれたのだ。
「氷室先生の弟子が入稿作業を手伝ってくれて。とても助かっているの」
「それはよかったわね」
真由美がほっと安堵した。
「それにしても、どうしてここに」
「今日子も、なぜここにいるの」
「広告主の会社が、このビルにあるの」
「編集長は営業も兼用か、大変ね。私はアレよ。例のクリニックの帰りなの」
「そうなの。真由美も大変ね…」
アレというのは、不妊治療のことだ。いつの間にか、真由美本人が「アレ」と表現するようになっていた。
「孫の顔を見たいと言っていたお義母さんが、最近この話題に触れないの。逆もまたプレッシャーだわ」
「そうなのね」
結婚して夫と二人きりの真由美も、離婚調停中の百合も、それぞれ姑には悩まされているようだ。煩雑な出来事が増えていくにつれて、家族関係も微妙に変化するのかもしれない。真由美や百合に比べて、未婚で家族がいない今日子は自分のことだけで必死だった。自由なはずなのに、気ままに生きられなくなったのは、年齢を重ねながら責任を伴う仕事が徐々に増えていったからだろう。
「ところで年下の彼氏はどうしたの?」
「ノブミツも心配してるよ。今日子には甘ったれの年下は無理だって」
「言わせておくわよ」
今日子は苦笑した。ノブミツの心配が的中しているともいえるし、外れてしまったともいえる。
坂口健太は編集部が壊滅の危機に瀕した時に、いち早くメッセージをくれて励ましてくれた。その後も毎日のように今日子の体調を気遣うメッセージをくれる。健太のマメな一面がわかってくると、工房に泊まっていた後輩女子も、ホテルのトイレで“大阪の愛人”と称したテレビ局のディレクターも、みんな健太の恋人かもしれないと思うのだが、編集部を立て直すことで精いっぱいの今日子は、健太とのことを後回しにしている。
「ねえ、今日子、前から気になってたんだけど」
「なに」
普段は物おじせずにはきはきと話す真由美が、珍しくもじもじしている。
「どうしたの?はっきり言って。約束の時間が迫っているの」
「わかった。では言ってしまうね」
真由美は深呼吸をする。
「どうしたの、いつもとは違うわ」
「うん」
頷いてから、今日子は「気を悪くしないでね」と何度も念を押す。まるでこれから傷つけますと宣言しているかのように。
時計を見ると、約束まであと10分だ。少し前に到着したかった。
「長くなるなら、ノブミツの店で聞くわ」
すると真由美が首を振って
「ノブミツの耳に入ると、話がややこしくなりそうだから、今ここでいうね」
「うん」
「本当に気を悪くしないでね」
「ええ。約束する」
「今日子ね、今日子は本当に坂口くんのことが好きなの?」
「そうね、好きよ」
「好き? そうかな。私には彼のことが好きっていう今日子の気持ちが伝わってこない」
「好きという気持ちって、なに?」
すると一呼吸を置いてから、真由美はまるで決壊がほどけたように、一気に吐き出し始めた。
「好きなら嫉妬する。後輩の女と一緒にベッドで寝ていたなんて。決定的な証拠だよ。でも今日子は嫉妬もしなければ、怒りもない。それから受賞パーティーのホテルのトイレで、大阪の愛人とかいう変な女に、せせら笑われた時だって坂口くんのことが本当に好きなら、そんな女なんか、許せないよ。好きなら、ぶっ飛ばすよ。ねえ、今日子、坂口くんが好きっていうのは嘘なんでしょ」
思いがけない激しい口調に、今日子はたじたじとなった。真由美の激しい部分を初めて知ったという驚きも手伝って、今日子は何度もまばたきをした。
「人を好きになるってことは、楽しい反面とっても苦しかったりするの。でも今日子から、それが感じられない。大人の女ぶって、年下の男を甘やかしているって気がする、恋もどきの低温観測だわ」
「恋もどきの低温観測って……きついわね」
はあっとため息をつくと、「ごめんね」と真由美。
「でもね、今日子、今日子は独身なんだよ。だからちゃんと選んでほしいの」
「真由美……」
夫婦喧嘩でもしたのだろうか。不妊治療は長引けば長引くほど、夫婦関係に亀裂が生じさせやすいと聞いているが、真由美はいま幸せなのだろうか。
「ごめんね、やっぱりノブミツの店で言葉を選んで話すね」
真由美がうなだれると、今日子は少しずつ冷静さを取り戻してきた。
「うん。約束の時間だから、じゃあね」
手を振って、エレベーターのボタンを押すと、すぐにエレベーターが開いたので、滑り込むように中に入って、8階を押した。手を振った真由美が踵を返して路地へと向かう。気のせいか少し痩せたような気がする。真由美も秘密を抱えているのかもしれないと、ふと今日子は思った。
夕方過ぎに社に戻って、パシコンのメールを開くと、百合から予想もしなかった嬉しい知らせが届いていた。思わず電話をかけると、すぐに百合が出た。
「メールを読んだわ。広告ありがとう」
「以前から社に掲載を申請していたの。通ってよかったわ。タイミングもばっちりね」
百合の優しさに、熱いものがこみあげてきた。一つのことがきっかけで、ぐんと運気が上がることを今日子はこれまで何度か経験している。百合の優しさがそのきっかけになるかもしれない。
「落ち着いたらノブミツの店でまた真由美を誘って三人で会いましょう」
「そうね」
銀座で偶然に真由美に会ったことは黙っていた。
「ノブミツも心配しているわよ。口が悪いけど、親戚のおじさんみたいに、今日子を待っているわ」
「そうなの…」
転送された江口からの手紙のことも、あれきりになっていた。大きなトラブルが生じると、過去のことで悩んでいる暇もなくなる。検査入院を終えて退院した日から、苦境を乗り越えようとするエネルギーが今日子を支えていた。苦い過去を忘れるには、今を必死に生きることだと改めて思う。
午後8時を回った編集部には、今日子だけが残っていた。今朝届いた氷室恭介の新しい連載小説を入稿すると、坂口健太からメッセージが届いた。
「仕事、お疲れさま。頑張りすぎて、体を壊さないでください」
出会った頃の子犬のような可愛い文面と、猫のイラスト。真由美の「本当に好きなら嫉妬しているはず」という苛立ちを思い出すと、今日子は急に仕事から逃げたくなった。気づくとパソコンの電源を切って、バックを手にしていた。
一か月半ぶりに『カフェ ソサエティ』のドアを開けると、チャリンという鈴の音が響き、
「いらっしゃい」とノブミツが迎えてくれた。
「久しぶりじゃない。痩せた?」
「体重は変わってないよ」
「じゃあ、やつれたのね。女も40歳を超えたら、自分をいたわってあげないと」
「まだ39歳よ」
「あら、しぶといわね。まだ30代」
「まだまだよ。半年以上先!」
ノブミツに言い返しながら、カウンターに座ろうとすると、そこに一人の男性が座っていた。氷室恭介と大学が同期の宮内だった。
「こんばんは」
今日子が挨拶をすると、宮内がゆっくりと振り向いた。
「今日子、知っているの」
「氷室先生の受賞パーティーで会ったの。その節はありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい夜でした」
宮内が浅黒い顔を少し赤らめながら、グラスを手に取った。
「なんだ。知り合いなの。面白くないわね」
「面白くないって、どうして」
今日子がカウンターに腰かけると、おしぼりを出したノブミツが、少し忌々しそうに口を尖らせた。
「宮内さんとね、実験してみようかって言っていたの」
「なんの実験」
「初対面の男女がバーで出会うと、日本ではなぜか最初に話しかけるのは女からで、男からはないよねって宮内さんと話していたの。アメリカだと、『一杯ご馳走するよ』って男からモーションかけるでしょ。ヨーロッパも似たようなものよ。だから、うちの店で、男のほうから『ご馳走するよ』ってやってみようって盛り上がっていたの。でもあんたたち、初対面じゃないのね。面白くないわ」
ぶつぶつ不満を言うノブミツに、今日子はにっこりと笑って
「宮内さんとはあまり話さなかったから、初対面のようなものよ。その実験とやら、ここでやってみましょうよ」
と言うと宮内が今日子の横顔を、嬉しい表情を浮かべながら、見つめていた。
作家 夏目かをる
ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。