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「どうしたんですか」
駆け寄ると、女性が「生まれそうなんです。陣痛が……」
とすがるような目で今日子を見つめた。
今日子が驚いて一瞬の間、引いてしまったが、「歩けますか」と声をかけた。無言の女性を抱きかかえながら「病院に行きましょう」と車の後部に座らせると、女性はぐったりとシートに横になった。年齢はおそらく20代後半くらい。化粧をしていなかった。紺色のトレーナーは、擦り切れてボロボロで素足にサンダルを履いていた。近くに住んでいる主婦なのだろうと今日子は思った。
「病院はどこですか」
「さくらい産科クリニック」
と言ってから、意識が遠のいたのか静かになった。妊婦にシートベルトを巻き付けてから急いで運転席に戻った今日子は、ナビに病院名を打ち込んでから「しっかりしてくださいね」と妊婦に呼びかけてアクセルを踏んだ。
中央自党車道を南下した富士吉田市のはずれに、レンガ色の建物が見えた。昭和のたたずまいが残るクリニックの玄関に「さくらい産科クリニック」と看板が出ていた。
ブレーキをかけると、白い猫が車を横切った。
思わず小さな悲鳴を上げると同時に、妊婦が「生まれる!」と叫んだので、「着きましたよ」と妊婦に声をかけてから、勢いよく飛び出して、クリニックのドアを開けて「生まれそうなんです、早く来てください」と大声で叫ぶと、白衣姿の看護師が2人が小走りに玄関までやってきた。車中の妊婦を見つけると担架に移動させ、医院内に連れて行った。
「さっきの猫はどうしたのかしら」
車体の下を覗いたが、白い猫どころか、石ころ一つなかった。今日子が荒い息を整えていると、「ご家族の方ですか」と別の看護師から尋ねられたので「いいえ。女性が道路でしゃがんでいたんです。危なかった」と一気に話すと、「時間、ありますか。よかったら、こちらに」と病院へ入るように促された。詳細を知りたいようだった。
腕時計を見ると、取材先の富士レークホテルまでぎりぎり真に買うかどうかの時間だった。
「ごめんなさい」
と断ろうとすると、スマホが着信を告げた。取材者である石川氏のPR担当の田中からだった。
「すみません」
と開口一番で田中が謝罪した。
「石川博士の患者さんの容体が急変したので、対応に午前中いっぱいかかるかもしれないということで。取材は午後に変更してもらっていいでしょうか」
電話口で田中が一生懸命に頭を下げている光景が見えてくるようだった。
「わかりました。医者は患者さん次第のところがありますからね」
電話を切ってから今日子は、看護師にすぐ戻ると言ってからクリニックの外に出て、カメラマンと編集部に変更の電話を入れ、車を駐車場に移動させてから、クリニックに戻った。
ナースステーションを過ぎると、そこは分娩室だった。ひょっとしたら運んだ女性かもしれないと分娩室の前で待っていると、ドアが開いて、勢いよく泣き出す赤ちゃんの声が聞こえてきた。
「生まれたのね」
マスクの看護師が分娩室から出てきて、今日子に「女の子です」と教えてくれた。生まれたばかりの赤ちゃんの親戚と勘違いされたのだろう。名前も知らない妊婦に助けを求められて、クリニックに連れてきて、出産にも立ち会ったという偶然に、今日子は深い感銘を覚えた。
深呼吸すると、分娩室からマスクで口を覆い、青い手術着を着た医師が出てきた。「ちょっとこちらに来てください」と促されたので、今日子は看護師に案内された部屋に入って医師を待っていた。ドアには『院長室』と表札が掲げられている。
「お待たせしました」
マスクを取って白衣に着替えた医師は、新田と名乗った。肌に艶があって今日子と同年代に見えたが、頭に白いものが混じっている。おそらく5歳ぐらい上だろう。骨太のがっちりとした体格で、男らしい骨ばった顔つきだった。
「中央自動車道で偶然助けたそうですね」
正確にいえば、中央自動車道から少しそれた道だったが、「自動車道の近くです」と答えると、「その時に、本人の身元に関することを言っていませんでしたか。車の中で、名前を名乗るとか」
「いえ、さくらい産科クリニックに連れて行って欲しいということだけです。生まれそうだったので、夢中でアクセルを踏みました。この病院の患者さんではないのですか」
「それが、うちの患者さんじゃなくて。しかも身元がわからないのです」
今日子は驚いた。そんなことがあるのだろうか。
「スマホを落としたそうで、名前も覚えていないそうです。軽い記憶喪失か、それとも……」
ほんの5秒ぐらい黙り込んだ新田医師は、今日子に「妊婦さんをうちのクリニックに連れてきてくれてありがとうございました」と頭を下げた。
腰の低い新田医師に感動した今日子は「こちらこそ。母子ともども無事でよかったです」とお礼の言葉を述べた。
さくらい産科クリニックを出て、ビートルに乗り込んだ今日子は、待ち合わせの富士レークホテルに向かった。
胸がどきどきする。
中央自動車道に戻ると、富士山が見えた。悠々とした富士山に癒されたい。そう嘆いながら、車体に設置されているラジオのスイッチをオンにした。
FM局を好んで聞いているというアナログ世代の宮内のラジオから、音楽が次々と流れた。クリニックでの残像が脳裏から薄れていってほしかった。
10分も経たないうちに、編集部から電話があった。作家の氷室恭介がインフルエンザになったため、原稿が落ちてしまうという。
「初夏のインフルエンザって、珍しいわね」
と今日子がため息をつくと、新人の女性編集者が
「氷室先生は東南アジアの取材旅行中に、感染したようです」
「そうなの。では謝罪文を掲載しておいてね」
電話を切って、ほおっとため息をつくと、スティングの「Shape of My Heart」が流れてきた。映画「レオン」のテーマ曲だとわかると、今日子は不意に切なくなった。
フランスを代表する映画監督リュック・ベッソンの出世作「レオン」は、ジャン・レノ扮するプロの殺し屋が、隣室に住む少女を助けてから、互いに愛情と信頼を寄せていく愛の物語だ。少女を演じたナタリー・ポートマンの時折見せる大人の女のような視線が、今日子の脳裏にくっきりと焼きついている。
「レオン」が少女の初恋物語だと気づくと、封印しようとしていた初恋の思い出が押し寄せてきた。その相手の面影と、さっきさくらい産科クリニックで院長室に入ってきた事務局長が重なる。是枝という白髪の事務局長は、今日子の初恋の彼とそっくりだった。
初恋相手は、グレーのロシアンブルーを飼っていた。グレーの毛並みの良い猫の名前はブルーで、今日子が飼っていた白い雑種のホワイトと仲が良かった。クリニックの前で、ホワイトに似た白い猫に遭遇したのは、単なる偶然なのだろうか。
今日子はビートルのアクセルを強く踏んだ。昼前の中央自動車道には遮るものがなかった。
作家 夏目かをる
ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。