
◇『ガラスのなかのくじら』 (トロイ・ハウエル&リチャード・ジョーンズ 作/椎名かおる 訳/あすなろ書房)

あなたは「自分を大切にしていますか?」と聞かれたら、何とこたえるだろうか。
家族や友人、同僚...周りの人たちのことは、ずいぶん大切にできるようになった。
昔はクールぶって、生意気で、誰かを傷つけてしまうこともあったけれど、もうこの通りすっかり大人なんだもの。
友人が元気のない時には、朝までだって話を聞いてやる。必要なら「あなたのこと、大切に思っているよ」と励ましてあげる。
職場では「頼れる先輩」キャラがすっかり定着した。決して感情は表に出さない。いつだってその場のベストを優先する。自分はどう思うか、はさて置いて、大切なのはその場の空気。笑顔、笑顔、笑顔でいなきゃ・・・。
少し前まで地上波で放送していたドラマ『獣になれない私たち』で新垣結衣の演じた主人公「晶」(あきら)が、まさにこのタイプの女性だった。
仕事ができてしかも親切、誰にでも好かれるキャラの彼女は、行きつけのビアバーでも愛想笑いを顔に貼りつけている。
松田龍平演じる「恒星」(こうせい)は、そんな彼女を「キモい」と一蹴...というところから、恋のドラマが始まる。
このドラマには恋愛の他にも様々なテーマが内包されていたのだが、中でも
「自分に嘘をついて、(表面上は平和な)今の状況に流され続けるの?」
「本当はどうしたいの?」と、(登場人物たちが)終始問われていた内容が、なんだか人ごとと思えず、固唾を呑んで観つづけた。
日常を壊す覚悟、大きな決断...そこにいたるまでの彼らの葛藤が丁寧に描かれていて惹かれた。
絵本『ガラスのなかのくじら』に登場する(くじらの)ウェンズデーは、ドラマの晶みたいにずっと自分を押し殺して生きてきたわけじゃない。
街の真ん中にある大きな水槽の中に、ただ悠々と“居る”ことだけが、はじめから彼女に与えられた唯一の仕事だったし、彼女は水槽の中こそが自分の本当の居場所と信じて疑わなかったのだから。
そう、高くジャンプしたあの日、光る「blue」(海)が偶然目に飛び込んでくるまでは...。
ガラスの向こう側の女の子に、「あなたの居場所はここじゃない」と告げられるまでは...。
くじらのウェンズデーは見てしまったのだ。ここではない、どこまでも広く美しい海(blue)を。
考えてしまったのだ、「わたしは本当はどうしたいのだろう?」と。
悩んで考えて、晶はそれまでの自分に与えられていた役回りを放棄する。いや、役回りにしがみついていた自分の弱さと決別することにする。
はじめて本当の気持ちを吐き出して、長年煮え切らなかった彼との関係は解消し、頼りにされていた会社を飛び出す。
迷っておびえていたくじらのウェンズデーも、最後には、居心地の良いガラスの水槽を思いっきりジャンプして出て行こうとする。
すると、こんなにたかく とべたのです。
彼女たちがはじめて、自分のためだけに決めたこと。
はじめて、本当に自分を大切にした瞬間。
「終わってないよ、変わっただけ。鮮やかには変われなくても、ちょっとずつ…」
穏やかに語る(ドラマの)晶と、たどりついた海で高らかに歌う(絵本の)ウェンズデーの顔は、どちらも凛と輝いている。
もちろん、彼女たちのやり方は、私たち世代にとっては危険を伴うもの。ドラマや絵本に感動したからといって、その勢いでうっかり真似してはいけない。
・・・でも、こうも思うのだ。
自分を押し殺して我慢して愛想笑いをしているうちに、人生なんてあっという間に終わってしまうのではないかしら。
あなたのほんとうにやりたいこと、伝えたいことを、今、たった一つでもいいから、今。
あなたは自分を大切にしていますか?
絵本をひらいて、おだやかなblueに身も心もゆだねてみて。
◇『シルクハットぞくは よなかのいちじにやってくる』 (おくはらゆめ作/童心社)

シルクハットぞくは よなかの いちじに やってくる
こんなに たくさん あつまってても あしおと ひとつ きこえない
シルクハットぞくは、紳士でちょっと謎めいた秘密の集団。
かれらは黒い山高帽、黒いマントに身を隠し、真夜中にやって来るのだが…
表紙の絵をごらんいただきたい。にっこりと微笑みをたたえた可愛らしい目、ほっぺたはピンク色だ。「族」は「族」でも、まったく悪意のない集団であることがすぐにおわかりになるだろう。
彼らは夜中の1時になると静かに飛んできてある「仕事」を遂行するのだが、その仕事が実にユーモラスで、さりげない優しさに満ちているのだ。
(心の中だけで会話するので、声はヒソリとも聞こえない。)
せかいの あちこちで
ちょっとだけ・・・ ちょっとだけ・・・
シルクハットぞくが一体何をするのかは、読んでみてのお楽しみ。
このさりげない優しさは、昔、小さかった頃のあなたにはいつも与えられていたのかもしれない。
あるいは今、あなた自身が知らないうちに、「シルクハットぞく」の仲間入りをしているのかもしれない。
これまでも、これからも…あなたを大切に思う人は、きっといろんな所にいる。
そのことをもし忘れてしまいそうな夜があったら、そっとこの絵本をひらいてみて。
絵本コーディネーター 東條 知美
子どもから高齢者まですべての層に向け“毎日がちょっと豊かになる絵本”をコーディネート。講演・テレビ出演等、活躍の場を広げている。